上平川大蛇踊り

上平川大蛇踊りは、日本各地に伝えられている蛇踊りとは、その蛇の操作のしかたが変わっていて、十数メートルの3本の竿に大蛇を吊り下げて操作します。この踊りは、上平川の幸村政孝が、薩摩藩への貢ぎ物の御用を無事すませて帰島する途中に嵐にあい明国に漂着し、そこで暮らす内にこの踊りを覚え、数年後、沖永良部へ帰る船便の都合で琉球に立ち寄り琉球の歌と踊りを、この踊りに取り入れ大蛇踊りを完成させ、上平川へ伝えたと言い伝えられています。踊りの内容は、次のような物語になっています。

舞台の上で、頭には華やかな冠のような飾りをつけ赤い着物を着た女性が舞っており、両側に、青い衣装に白い鉢巻を締めた複数の男性しゃがんでいる大蛇踊りの写真

「ある寺の和尚さんが、旅に出る事になり、小僧たちに留守の間、寺に女性をとめてはいけないと注意して旅に出た。月日が過ぎたある夜、美しい娘の一夜の宿の頼みに負けてとめることになった。小僧たちが、娘の唄や踊りを楽しんで眠ったところ、その娘は蛇の化身で、大蛇となって小僧たちを襲ってきた。なすすべを知らない小僧たちは、恐れおののくばかりであったが、その時和尚さんが帰ってきて、全員で一生懸命お経を唱え大蛇を退治した。」

以前は、この踊りをする度に、大蛇踊りに使う道具のすべてを集落総出で作り、踊りが終われば焼却していましたが、現在は、大事に使用し出来るだけ保存するようにしています。

上平川の大蛇踊りは、大変珍しく、また、文化的に価値の高い文化財だということで、鹿児島県無形民俗文化財として指定され保護されています。

夜の屋外で、青い法被に白い鉢巻を締めた複数の人が操作する巨大な蛇の作り物が夜空の空中に持ち上げられている上平川大蛇踊りの写真

瀬利覚の獅子舞

獅子舞は、沖縄本島をはじめ日本の各地で、厄払いの行事や豊年祭の出し物として踊られています。

瀬利覚の獅子舞が、何時の頃どのようにして伝わってきたのかは、記録が無いのではっきりとしませんが、古い時代に中国大陸から沖縄に伝わり、沖縄からその信仰と共に沖永良部に伝わったものだと思われます。それは、獅子のつくり方や踊りかた、使う道具等、沖縄のものと大変よく似ていることで知る事ができます。

広々とした舞台上で、毛むくじゃらの白い獅子舞の衣装をまとった演者と、和装で鉢巻を締めた演者が向かい合っており、舞台の奥には和楽器を演奏する数人の奏者が座っている瀬利覚の獅子舞の写真

獅子舞の演出

  1. 最初に二人の舞子が登場し、アヤカビルの舞を踊ります。
  2. アヤカビルの舞が終了すると、太鼓と誘導者に誘われて獅子が姿をあらわします。
  3. 獅子の踊りが行われ、途中の休み々に合わせて獅子が踊ります。
  4. 獅子が退場すると、アゲチクテンと余多打ち畑の曲を全員で踊ります。

久志検チンカラ踊り

今からおよそ二百年前、久志検の川畑中納という人が、当時の上役人と三名で、薩摩に貢物(税金)を納めに行きましたが、その御用を済ませて帰るまでの期間地方をまわって見物している内、ある集落で楽しそうな珍しい踊りを発見しました。氏は、この踊りを教えてもらい、しっかり身につけてから島に帰り集落の人々にも教え伝えました。これが、久志検集落のチンカラ踊りの始めだと言い伝えられています。

同時に、氏は、踊りの用具一式、タスキ・ハチマキ・ノボリ・リボン等たくさんの物を持ち帰り伝えました。

チンカラ踊りの原名は、現在ははっきりしませんが、踊りに使う鳴り物の音から、チンカラ踊りという俗称で呼ばれるようになり、現在は、久志検チンカラ踊りとして踊っています。

広々とした舞台上で、黒い着物に白い帯と鉢巻を締めた複数の演者が太鼓を打ちながら踊っており、背中にリボンのついたのぼりを付けた久志検チンカラ踊りの写真

正名ヤッコ踊り

沖永良部島において、ヤッコ踊りは、昭和初期の頃までサイサイ節踊りのように、各集落で唄い踊られていた一般的な踊りだったようですが、現在は、知名町の正名集落や和泊町の国頭等、数集落に伝承されているだけになっています。

正名集落のヤッコ踊りは、畦し越い(あぶしぐい)・天ぬ群星(ぶりぶし)・久高マンジュウ主の三曲構成になっています。踊り手の数に定数は無く、舞台の広さや、その場の状態によって踊り手の数がかわります。現在、集落や町などの公的行事や各家庭の祝いの座などで、老若男子の集団舞踊として、勇ましく軽快に踊られています。

薄茶色と白の簡素な衣装をまとい白い鉢巻を締めた複数の演者が、躍動的に踊っており、赤と白の円形の装飾品を手の持った正名ヤッコ踊りの写真
広々とした舞台上で、白い衣装に紫色のタスキをかけ、白い鉢巻を締めた複数の演者が太鼓を持ち勢いよく踊っている正名ヤッコ踊りの写真

西目イシシハカマ踊り

この踊りは、歌詞からみると、熊本や鹿児島で江戸時代に大流行した地突歌や祝儀歌と同じ内容になっています。

江戸時代の終わりの頃、上城の沖野松盛氏が代官付人として、鹿児島へ行った時に、この歌を習い覚えて帰り、西目の踊りの先生方や三味線の名人達と協力して創ったのが、この踊りの始まりだと言い伝えられています。

この踊りは、初め上城の高野家(イ・フーニ)を中心に伝承され教え広められていましたが、現在は、西目地区の無形文化財として、上城・下城・新城の全集落で唄い踊られています。

黒い着物と白い袴、黒の笠を被った複数の踊り手がステージ上で伝統的な踊りを踊っている西目イシシハカマ踊りの写真

この記事に関するお問い合わせ先

教育委員会事務局生涯学習係
〒891-9213 鹿児島県大島郡知名町瀬利覚2362番地
電話番号:0997-81-5151
ファックス:0997-81-5153
お問い合わせフォーム