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更新日:2024年3月12日
アーニ(大字)マガヤ(小字名)というところにあり、南方を向いた斜面に石灰岩をくり抜いて造られ、玄室内部には三方に棚段が造られ全面部分は前に突き出ており、沖縄の亀甲型墓の入り口に似た造りが特徴的である。
自然石灰岩をくり抜いて造られた琉球式墳墓であるが、西隣には仏教の影響を受けた本土型の墓地があり、沖永良部の風習がトゥール墓から日本式の墓に変わっていく途中を知る資料として学問的に重要な場所である。
この墓は1840年に沖永良部の代官として赴任し、1824年に座横目として再来島した鹿児島の城下士、遠矢金兵衛が妻子のために造ったものだと言われている。丘陵斜面を利用した横穴式屋根型で前庭があり、石壁で囲まれた入り口は鳥居型の石門がある。
昭和57年、58年、59年の三回に渡って調査された中甫洞穴出土の瓜形文土器、他に轟式土器、須恵器、人骨などが出土した。瓜形文土器の発見で沖永良部の歴史は一気に縄文時代草創期まで遡ることとなり、奄美最古の遺跡として注目された。
世之主の四天王の一人、屋者真三郎(マサバル)の墓だと言い伝えられている。石灰岩をくり抜いて造ったトゥール墓であるが、屋根は日本式切妻型になっており石畳式に葺かれている。これは、現在沖縄に残っている亀甲形の墓よりも古い形式である。
琉球王国時代、交易が盛んなときの船着き場で「ヨンドメ」と呼ばれ交易物資を格納したといわれている。
昭和32年に発掘調査が行われ、縄文時代晩期の土器や石器を中心に、石組住居跡、貝の腕輪や骨製の装飾品などが多数発掘された。
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