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更新日:2024年3月12日
上平川大蛇踊りは、日本各地に伝えられている蛇踊りとは、その蛇の操作のしかたが変わっていて、十数mの3本の竿に大蛇を吊り下げて操作します。この踊りは、上平川の幸村政孝が、薩摩藩への貢ぎ物の御用を無事すませて帰島する途中に嵐にあい明国に漂着し、そこで暮らす内にこの踊りを覚え、数年後、沖永良部へ帰る船便の都合で琉球に立ち寄り琉球の歌と踊りを、この踊りに取り入れ大蛇踊りを完成させ、上平川へ伝えたと言い伝えられています。踊りの内容は、次のような物語になっています。
「ある寺の和尚さんが、旅に出る事になり、小僧たちに留守の間、寺に女性をとめてはいけないと注意して旅に出た。月日が過ぎたある夜、美しい娘の一夜の宿の頼みに負けてとめることになった。小僧たちが、娘の唄や踊りを楽しんで眠ったところ、その娘は蛇の化身で、大蛇となって小僧たちを襲ってきた。なすすべを知らない小僧たちは、恐れおののくばかりであったが、その時和尚さんが帰ってきて、全員で一生懸命お経を唱え大蛇を退治した。」
以前は、この踊りをする度に、大蛇踊りに使う道具のすべてを集落総出で作り、踊りが終われば焼却していましたが、現在は、大事に使用し出来るだけ保存するようにしています。
上平川の大蛇踊りは、大変珍しく、また、文化的に価値の高い文化財だということで、鹿児島県無形民俗文化財として指定され保護されています。
獅子舞は、沖縄本島をはじめ日本の各地で、厄払いの行事や豊年祭の出し物として踊られています。
瀬利覚の獅子舞が、何時の頃どのようにして伝わってきたのかは、記録が無いのではっきりとしませんが、古い時代に中国大陸から沖縄に伝わり、沖縄からその信仰と共に沖永良部に伝わったものだと思われます。それは、獅子のつくり方や踊りかた、使う道具等、沖縄のものと大変よく似ていることで知る事ができます。
今からおよそ二百年前、久志検の川畑中納という人が、当時の上役人と三名で、薩摩に貢物(税金)を納めに行きましたが、その御用を済ませて帰るまでの期間地方をまわって見物している内、ある集落で楽しそうな珍しい踊りを発見しました。氏は、この踊りを教えてもらい、しっかり身につけてから島に帰り集落の人々にも教え伝えました。これが、久志検集落のチンカラ踊りの始めだと言い伝えられています。
同時に、氏は、踊りの用具一式、タスキ・ハチマキ・ノボリ・リボン等たくさんの物を持ち帰り伝えました。
チンカラ踊りの原名は、現在ははっきりしませんが、踊りに使う鳴り物の音から、チンカラ踊りという俗称で呼ばれるようになり、現在は、久志検チンカラ踊りとして踊っています。
沖永良部島において、ヤッコ踊りは、昭和初期の頃までサイサイ節踊りのように、各集落で唄い踊られていた一般的な踊りだったようですが、現在は、知名町の正名集落や和泊町の国頭等、数集落に伝承されているだけになっています。
正名集落のヤッコ踊りは、畦し越い(あぶしぐい)・天ぬ群星(ぶりぶし)・久高マンジュウ主の三曲構成になっています。踊り手の数に定数は無く、舞台の広さや、その場の状態によって踊り手の数がかわります。現在、集落や町などの公的行事や各家庭の祝いの座などで、老若男子の集団舞踊として、勇ましく軽快に踊られています。
この踊りは、歌詞からみると、熊本や鹿児島で江戸時代に大流行した地突歌や祝儀歌と同じ内容になっています。
江戸時代の終わりの頃、上城の沖野松盛氏が代官付人として、鹿児島へ行った時に、この歌を習い覚えて帰り、西目の踊りの先生方や三味線の名人達と協力して創ったのが、この踊りの始まりだと言い伝えられています。
この踊りは、初め上城の高野家(イ・フーニ)を中心に伝承され教え広められていましたが、現在は、西目地区の無形文化財として、上城・下城・新城の全集落で唄い踊られています。
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