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更新日:2022年1月1日
知名町は、海抜245メートルの大山を中心に、その裾野に21の集落が形成されている。
主な産業は、農業で砂糖きび・花き・輸送野菜・葉たばこの栽培に畜産を組み合わせた複合経営が確立されている。
奄美史の歴史区分は、原始から8~9世紀までを「奄美世」と呼び、階級社会以前の部落共同体の時代でした。続いて按司という首長たちの支配割拠する階級社会となります。これを「按司世」と称しています。その後、琉球王朝が支配する「那覇世」、薩摩藩が支配する「大和世」と続きます。「那覇世」は文永3年から慶長14年までの340余年間で、当時、琉球は中山・北山・南山の三王朝が割拠し、本島は北山の支配下にありました。本島に伝承されている文化・言語・風俗などは、その当時に起因しています。
慶長14年、薩摩藩の琉球侵略の結果、本島も薩摩藩直属領になり、元和2年には徳之島に代官が置かれ、本島と与論島を巡回して統治。元禄3年徳之島代官の行政を離れ、沖永良部島に代官所を設置。明治2年には代官所を在藩所と改め、明治4年の廃藩置県に伴い沖永良部支庁となりました。
明治12年には戸長役場が設置され、21年に知名村役場が置かれ、明治41年には島嶼町村制が実施され、本島は知名村と和泊村に区分されました。そして、大正9年普通町村制としての知名村となり、村長は住民の公選となりました。
昭和16年12月第二次世界大戦勃発、昭和20年8月に終結したものの、昭和21年2.2宣言により、本島は同年3月から祖国日本から行政分離されアメリカ合衆国の統治下となり、米軍統制下で昭和21年9月に町制が施行されました。
昭和28年12月25日ダレス声明により祖国復帰し、日本国民として再出発。翌29年に奄美群島復興特別措置法が公布され、昭和38年度まで公共土木事業を中心とする復興事業が推進され、昭和39年度から昭和48年度までの振興事業では産業基盤整備が推進され、昭和49年度から平成10年度までの振興開発事業による社会基盤の整備が図られ、本町の基盤が築かれました。平成15年度まで特別措置法の延長がされたことから、効率的な活用を図りながら総合的な整備に取り組み「豊かで、明るく、住みよい町づくり」を推進します。
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